英雄時代の再来
欧州において戦士の装甲の厚さは、中世の板金鎧のそれが頂点である。全身を金属の板で覆ったこの鎧は、あまりの重さゆえ着用者を騎乗させるにも機械が必要であった。当時の戦闘といえば、軸となるのは騎士による1対1の対決。剣や槍による殴り合いに押し負けて馬上から転落したものは従者たちに取り押さえられ、身代金と引き替えに帰郷を許された。
重く機動力を損なう板金鎧に価値があったのは、少なくとも英雄達にとって戦闘そのものは生死の問題ではなかったからである。勝ち負けは相手の命を絶つ以前の段階で決定され、仮に命を落とすにしてもそれは後処理の問題。そもそも長さ5メートルの木の棒やら鉄筋の切れ端のようなものを振り回したところで、よほど上手くやらなければ相手の命を奪えるわけがない。鎧が固ければ叩かれるのは痛くない。だから鎧を固く・厚くする。動きは鈍くなるが、それは相手も同じ事だ。
すべてが変わり始めたのは銃の登場以降である。遠距離から高速で飛来する金属の固まりは、二足歩行の亀達が反撃のため迫るのを阻んだ。マスケット銃登場以降、明らかに鎧は軽量化されていく。「打たれ強い」鎧から「打たれにくい」鎧へ。もはや鉄のかたまりには装飾以外の意味はない。
この変化を決定づけたのはフランス革命である。それまでの兵士はすべて傭兵であり、質はまあよいが高くついた。ところがフランス革命は徴兵制という前代未聞の制度を発明し、これによって兵隊の数はほぼ無尽蔵になった。ナポレオンがあれほど強かったのは、兵力の補給に悩む必要がなかったのも一因である。傭兵一人を殺すのに国民兵10人が殺されたところで、代わりの傭兵を雇うより十の国民に召集をかける方が手間がかからない、つまり被害が少ないということになる。よって戦闘は質の戦いから数の勝負へと変化してゆき、諸国民の悲嘆はここに始まるがそれは将軍達の預かり知らぬ話。
戦争自体が数の戦いとなったのは第一次大戦においてである。大量殺戮兵器の登場は、攻撃に対する防御という発想そのものを無効化した。狙われれば最後、当たれば終わり。それも個々の兵士レベルではなく隊レベルでの破滅である。この段階に至っては、もはや鎧は無用となる。機動力と攻撃力だけが重視される、現在の兵装が成立するのだ。さらに下って第二次大戦を過ぎると、兵装などなんの意味も持たなくなる。非武装市民に対する無差別爆撃というジョーカーが登場したからである(日本が世界に誇る、恥ずべき大発明のひとつだ)。
ところでこのゲームも含め、近未来SFにおいては非常にしばしば「二足歩行ロボット」というものが登場する。搭乗者はきわめて少数。現代の戦車なみかそれ以下、大概一人である。しかも絶対数が少ない。その装甲を含め、まるで中世の騎士の再来を見るかのようだ。少数精鋭による戦い、鉄筋よりは気の利いた武器を手にしているものの、一撃では相手を破壊できないのも騎士達と同じ。そして戦いの終わりはユニットの無力化、搭乗者の死ではなく戦闘不能によって訪れる。
歴史の拡大再生産。先祖帰りとも思えるこの変遷ははたして進化なのか。そもそも、現実は本当にその方向に進むだろうか?それとも二足歩行ロボットは人々の幻想、英雄時代へのノスタルジアに過ぎないのだろうか。
この文章はゲームに刺激を受けての雑感・雑想を形にしたものです。
現実およびゲームとは何ら関係のないことをお断りしておきます。